INTERVIEW vol.7 TAMAO|マガジン|アルコインターナショナル株式会社

2021.05.24

INTERVIEW Vol.7

TAMAOヨガインストラクター

自分にとって本当に大切なものがわかっていれば、
強くしなやかに生きていける。

ヨガインストラクターとして、SUPヨガの伝道師として、幅広いフィールドで活躍中のTAMAOさん。
文字どおり、人生を変えてくれたヨガと、彼女はなぜ出合えたのか。
その半生について語ってくれた。

仕事に子育てに奮闘する毎日

TAMAOさんは現在、ご主人と1歳の娘さんとの3人家族での暮らし。
当然ながら日々、忙しい。

「基本的には朝6時に起きて、ヨガやワークアウト、ランニングなどで1時間くらい汗を流します。
娘が起きていたら一緒に散歩をする日もありますね。
ウチはフルーツとかスムージーなんかでパパッと朝食を済ませちゃうことがほとんど。
それと、朝は必ず掃除をするようにしています。
ただし、きっちりやろうとしない。
『とりあえず水回りだけ!』とか。本当に毎日バタバタですね」。

娘さんを保育園に預けた後は、仕事の時間。
ヨガの仕事をメインに、最近はオンラインでコーチングの仕事などもしているそう。

「夕方5時に娘を迎えに行って、夜9時くらいまでは彼女との時間。
お風呂に入れて、寝かしつけて……。
で、その後にようやく自分の時間が取れるという感じですね。
読書をしたり、夫と晩酌をしたり、たまにZOOM会議があったりもするかな。
また、朝と夜寝る前には必ず15分くらいジャーナリングをします。
その日の朝にイメージしたことが達成できたかどうか、振り返りの時間です。
うまくできたこともあれば、そうでないこともある。
思うようにいかなかったことは改善策をイメージして、日々自分を塗り替えていけるように。
そういうセルフコンパッションの時間を大切にしています」。

生死を彷徨うほどの大事故とヨガとの出合い

学生時代に打ち込んでいたハンドボールを筆頭に、サーフィン、SUP、トライアスロンなどなど「ずっとスポーツをしてきた」と語るTAMAOさん。
熱中したらまっしぐらな性格だという。

早期卒業制度を使って日本体育大学を3年で卒業した後は、全日空のグランドホステスとして、成田空港で勤務するようになる。

「会社という組織にいながらも、『もっと挑戦できることはないかな』と常に模索しているようなところはありました。
学生時代に中高の体育の教員免許を取得していたので、それを生かして海外で働きたいと思ったんです。
その後、インターンシップでカナダへ渡り、現地のパブリックスクールで、日本文化と体育を教えるという生活をしていました」。

すごく充実した日々だったというカナダでの1年間を終え、日本に帰るというタイミングで、思わぬ不運が彼女を襲った。交通事故に遭ったのだ。

「大事故でした。脊髄損傷で2週間、生死を彷徨うほどの昏睡状態が続いた後、
『左半身が一生動かない可能性がある』と宣告されて、あの時が人生一番のどん底だったと思います。
ずっとスポーツ人生を歩んできた自分が、走れないと想像しただけで、生きることをあきらめようとさえ考えましたね」。

絶望のなか、一人のキーパーソンとの出会いによって彼女の人生は少しずつ動き始めていく。

「当時の主治医の奥様がインドの方で、バンクーバーでも有名なスクールをやられているヨガの先生だったんです。
彼女がヨガを勧めてくれたんですが、最初は『足が動かないのにヨガなんてできるわけない。惨めなだけでしょ?』って」。

教室の一番後ろで点滴をしながらただ車椅子に座っているだけの自分に、涙しか出てこなかった。

「でも、ちょっとずつ自分の気持ちが解放されて行くような感覚がありました。
その時一緒だったヨガの生徒さんたちも、毎日のように病室に来て励ましてくれたり。
そんなことがあってもう一度『生きよう』と思えるようになってきたんです」。

ある日、車椅子で公園を散歩していた彼女に思いがけないことが起こる。

「通りがかりの人が持っていたコーヒーが私の足にかかった瞬間、足先がピクッと動いたんです。
思わず『もう一回かけて』と言ってかけたらまた動いた。
その時に『ああ、私は生かされているんだ。もしかしたら、自分にもまだ可能性が残されているかもしれない』と感じて大泣きしましたね」。

自分には何か、やり残したことがあるのかもしれない。
そう自分を信じられるようになっていったのだ。

出会いや経験はすべて繋がっている

そんな奇跡の瞬間を経て、懸命にリハビリに取り組むようになり、はじめは後ろ向きだったヨガにも毎日通うようになった。
そしておよそ1年後、彼女の足は自分の力で歩けるようになるまで回復していた。

生死を彷徨うほどの大事故。その絶望から自分を救ってくれたヨガの真髄を知りたい。
そう思うのは必然だったのかもしれない。退院後は「もっと世界中、いろいろな人に出会いたい。
ヨガのことをもっと知りたい」と、聖地であるインドへ修行の旅に出たことを皮切りに、
単身で世界中を渡り歩いたり、再び客室乗員として働いてみたり。
あの時、生かされていると感じた自分の命をどう輝かせていくのか、TAMAOさんは答えを探し続けていた。

「事故に遭って怪我をして、そんな絶望のなかにあってもいろいろな人に救われてきた。
だからこそ、私のこの体を生かして、私の経験の中から生まれた価値観を、今度は人のために生かしたい。
救うというのはおこがましいけど、何か手助けをしたい。
そう感じた時に、やっぱりヨガだなと思ったんです」。

そこからヨガの講師として活動を始め、今年で15年になる。

「人間って、人生のいろいろな局面で神様が課題を与えてくれていると思うんです。
大怪我をした時の私には『何でも自分でやってきた』っていう過信があった。
だからもっとまわりの人に、愛と思いやりをもって過ごさなきゃダメだよと、気づかせてもらえたんですよね。
今では、事故の経験がありがたいと思えるし、あれがなかったら私の人生どうなっていたんだろう、とも思います」。

彼女自身、これまで出会った多くの人たちから愛を受け取ってきた。
そこで気づいたことは、まず自分自身が愛に満たされていないと、家族でも誰でも、目の前に来てくれた人に何も渡せないというということ。
そのためには、自分の体が健康で、心が健全でなければならない。

「娘との時間を過ごしていても、気づかされることってたくさんありますよ。
例えば、彼女はひたすら明るくてすごく笑うんですけど、彼女が笑うことで周りも明るくなったり。
すごく純粋で一生懸命な姿に感動すると同時に、小細工しないまっすぐな精神性を思い出させてもらったり……。

考えてみると、好きなことだけをひたすらやり続けてきた人生だと思うんです。
その結果、ありがたいことにヨガを仕事にできている。
今は多様性とか個の時代なんて言われますけど、そういう自分が大切にしている人やモノ、
あるいは環境や時間をどう使うかっていう基盤が、これからもっと重要になってくると思います。
情報がすごく増えている一方で、自分に必要なものをつかみとるにはやっぱり、他人に振り回されない自分でいること、
自分にとって本当に大切なものが何かをわかっていることが大切。
そういう意味で、自分を信じる気持ちって大事だし、自分を信じることができれば、自分にとって大切な人も信じられる。
その積み重ねの結果、お互いを本当に思いやれる、強いコミュニティが増えていくんじゃないかなと思います」。

事故に遭ったことも、ヨガと出合ったことも、旅をしたことも、全部つながっている。
まわりへの感謝を忘れずに、自分を信じて、好きなことを突き詰めていく。
そんなシンプルな生き方こそ、人生を豊かにする唯一の方法かもしれない。

自分自身が愛に満たされていないと、
目の前に来てくれた人に何も渡せない。

TAMAO

1982年、京都生まれ・横浜育ち。
ヨガインストラクターとしての活動を軸に、スタジオプロデュースや、SUPヨガの指導者の育成のほか、
モデルや書籍の監修など、多岐にわたって活躍中。

  • Photo: Akane Watanabe
  • Edit&Text: Soichi Toyama

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