2022.07.29
INTERVIEW Vol.14(前編)
フラダンス。
海とヤシの木、そして照りつく太陽の下で踊っている姿を想像する人が多いであろうフラ。
恥ずかしながら私もその1人だった。
ハワイ語でHula(フラ)とは“踊る”という意味でフラダンスとつい言ってしまいそうになるが
正しくは“フラ”であるこの伝統文化は、本来ハワイではコミュニケーションに必要な言語の役割をしていたそうだ。
「8歳の頃にたまたま近所にあったフラ教室に出向いたのがきっかけでした」。
湘南生まれ湘南育ちのHINAKOさんは幼少の頃から海のそばで過ごし
スケートボードにサーフィンそしてフラ、と湘南カルチャーをしっかりと受け継いでいる1人だ。
「両親がサーファーだったこともあり海に行くのは日常で、友達と海で遊ぶことも多かったです。
小学生4年生くらいの時に母親に連れていってもらった
鵠沼スケートパークでスケートボードと出会い、毎日のように通っていました。
当時はまだ女の子のスケータも少なくて男の子の中で一緒になって練習していましたね」。
スケートボードを中心に横乗りに触れる機会が多かった彼女が
なぜフラへの道をたどることになったのか?
「当時、周りの友達が習い事を始めているタイミングだったんですが
両親共働きということもあってどこにも通えなかったんです。
そんな時にたまたま近所にフラ教室があって。
家から数分という立地で両親もここならということで通わせてもらいました」。
「それこそ最初は習い事をしているという感覚で通っていたんですが、
転機が訪れたのは小学5年生の時にチームのメンバーとして始めて出場したコンテストでした」。
優勝チームには、ハワイで行われる本大会への出場権を獲得できるこのコンテストで
彼女たちは圧倒的なレベルの差を見せつけられたのであった。
「この時の負けが本当に悔しくて。それはもう言葉では言い表せられないほどでした。
大会終了後に当時の先生が来年はもう出ないと発表してしまって。笑
どうしてもこの大会で優勝したかった私たちは、みんなで先生に直談判までしたんですよ。笑」
そんな彼女たちの熱意に動かされ翌年のコンテストに出場を決めたチーム。
練習もHINAKOさんを中心に自発的に行い、翌年同大会で優勝を果たす。
「何か目標を持って頑張る楽しさを覚えたのがこの時でした。
この大会の練習をきっかけにフラをする時の表現力や曲の意味、
そうですね、ハワイの文化に触れることが出来たのが夢中になった理由の1つかもしれません」。
翌年出場したハワイ大会では日本人チーム初めての優勝。
本場でも認められるほどの踊りを披露したのだ。
そしてここからフラの道が本格的にスタートすることとなる。
「当時私が所属していたチームの本校がハワイ・オアフ島に拠点を構えていたため、
高校を卒業後ハワイ・オアフ島に留学をしました。
ハワイのフラチームは本当に家族みたいに仲がいいんです。
フラが習い事という立ち位置よりも、どちらかというとライフスタイルに近い存在であることに
最初、驚きを覚えたのと同時に感激しました」。
フラの世界大会と称されるメリーモナークフェスティバル。
陽気な王様(メリーモナーク)という愛称で愛されていたハワイ王国カラーカウア王。
“フラは心の言葉、すなわちハワイ人民の心臓の鼓動そのものなのです。”
という言葉とともにハワイの文化フラを消滅の危機から救った王様。
彼のニックネームをつけられた同大会は50周年を迎える歴史のある伝統的な大会でもあるメリーモナーク。
2018年のメリーモナーク先発メンバーに選ばれたHINAKOさん。
大会3ヶ月前になると練習量が増え、
週5日の練習その内2日間はお昼から夜までとハードスケジュールとなる。
「クム(先生)が曲を決め、振り付けを考えそれを私たちメンバーが覚えます。
団体演技なのでステップの一つ一つが揃わないと綺麗にならないため、
メンバー全員の存在を感覚だけで感じ、踊らないといけないんです。
だからこそメンバーとは近い関係でいる必要があるのかもしれませんね」。
「大地がまずはファースト、そして私たち人間が生きている、
というのがハワイの人のベースにある考えだと感じました。
私たちフラダンサーは古典フラ(普段私たちが慣れひたしんでいるのは現代フラが多い)を踊る時に
必要な楽器も山から調達して自分たちで作ります。
ハワイでよく見られる“レイ”(花の首飾り)も同じで、大会やイベント前夜になると
ダンサーそれぞれが花や葉っぱを摘み自分の手でレイを作る必要がります。
摘む時にも決まった手で取らなくてはいけない、
プレ(御祈り)をしながら取らなくてはいけないというルールもあるんです。
大地に対しての敬意を表すということなんだと思います」。
「メリーモナーク開催前にチーム全員でハワイ島の神様がいるとされている
キラウエア火山で踊りを捧げる儀式があります。
ハワイの神様でもあるペレに祈るという内容の儀式で、
この日のために作った草木の装飾を身に纏い踊り、
自分の一部をペレに捧げるため最後にそれらを火山口に投げ入れます。
ここでの踊りは本当に神聖で、大地と繋がれる感覚に涙が自然と落ちてくるほどエネルギーを感じるんです。
これもまた大地を敬うという彼らの文化の一つで貴重な体験です」。
2018年、2019年度のメリーモナーク出場、
2018年には全日本フラ選手権で勝を果たしたHINAKOさん。
3度目となる2020年のメンバーにも選ばれていた彼女であったが、
世界的パンデミックにより大会は中止、そして日本へ帰国せざるおえない状況に。
フラへの向き合い方が変わった2年間を過ごし彼女はどんな心境だったのか。
「想像していたよりも客観的にフラ見ることが出来た期間だったと思います。
もちろん当たり前にあったハワイでのフラがなくなるのは、これからどうしていこうと不安になることもありましたが、
“今できることをやる”という意識で過ごしていましたね。
ハワイ滞在中にフィルムカメラに出会い、最初はその色合いや雰囲気が可愛いと思って
撮り続けていたんですが、周りからの評価も多くて何か形にしたいと思い、個展もいくつか開催しました」。
言葉には出さなかったが、客観的に見て何かを表現するのが好きというのが伝わってくるHINAKOさん。
フィルムフォトグラファーとしての活動を精力的に行なっている時もいつも頭にあるのはやはりフラだったそう。
そして2022年、規制暖和に伴いメリーモナークが再開催。
彼女はまたハワイに戻った。
「一度目、二度目の出場では夢の舞台で踊れている嬉しさや感動であふれていて、
楽しい!という感情しかありませんでした。
だけど今回は全く別物でした」。
「今まではフラが好き、自分の踊りを見て欲しいという感情が私を突き動かしていたんですよね。
でも今回のメリーモナークの旅では、フラという文化をハワイの人がどれだけ大切にしているのかの思いの部分や、
踊りだけではなく文化そのものを継承しなくちゃいけないという
フラダンサーとしての“責任”を強く感じたんです。
でもそこに大きな壁があって。私が日本人ということです。
みんなと同じような気持ち、もしくはそれ以上の気持ちでフラに向き合って今まで生きてきたんですが、
それでも私はやっぱり彼らからすると異文化を学んでいる外国人なんですよね。
声を大にしてフラについて発信できないというもどかしさと同時に悲しくもなりました。
でも素晴らしい文化であるMālama ‘āina(マーラマアイナ)を伝えるフラダンサーとしての責任を正しく伝えていきたいと思いました」。
「日本の多くの方が持っているフラというイメージを変えていきたいですね。
フラの本質の部分を見てかっこいいって思って欲しいんです。
男性のフラって凄くかっこいいんですよ。
若い子がなかなか育たないというのが日本のフラ業界の現状なんですが、
若い世代から憧れられる、そんな業界になれるよう私なりの道を探しいていきます。
まっすぐにフラと向き合いながら」。
(後編に続く)
神田 日向子 / HINAKO KANDA
1997年7月21日生まれ。
幼少期よりフラを始め、オアフ島を代表するクム、
サニーチン主宰のハーラウ ・ナー ・ マモ ・オ ・ プウアナフルに所属し、
日本校のチーム代表として2018年、全日本フラ選手権に出場。
Miss Hula Japan 2018に輝いた。
フラの最高峰、メリーモナークの舞台にハワイ校のメンバーとして3度出場。チームで総合2位を勝ち取った。
現在はルーツであるフラやサーフィン、スケートボードというビーチライフスタイルの発信を始め、
自らフィルムカメラを手に取り、何気ない日常をスペシャルにというテーマで
作品撮りや個展、撮影などの活動も行なっている。